■倉敷十六屋について

~ 今でも屋号が使われる東町地区 ~

十六屋(じゅうろくや)は江戸時代から伝わる難波家の屋号です。 東町に古くから住まわれている方は今でも難波家のことを「十六屋さん」と呼んでいます。当家の西隣地の楠戸家も「はしまや呉服店」を営んでおられますが、我々もいまだに楠戸家の皆様を「はしまやさん」と呼んでいます。 田舎の方に行くと一つの地区全体で名字が同じというところがありますが、そこでは現在でも各家を区別するために昔ながらの屋号がつかわれています。比較的町中のここ東町でも同じような習慣が残されています。 この度難波家が東町に所有する建物一帯を「倉敷十六屋」という観光商業複合施設として開業することになりました。 倉敷十六屋を構成するのが、古民家見学施設「難波家本宅」とその周辺の旧呉服店店舗、土蔵、隣接する小さい町家「しまや」などの建物群です。見学施設以外の建物には、順次新しい店舗(物販店、飲食店)等がオープンする予定です。

■難波家本宅について

~ どうして「本宅」って呼ぶの? ~

倉敷十六屋の中核となるのが町家見学施設「難波家本宅」です。 この本宅母屋の座敷、仏間、茶室、台所、浴室、庭などの部分を見学施設として公開します。見学には入場料が必要ですが、一部のエリアは無料で見学いただけるようにします。 また邸内の座敷ではひな祭り、端午の節句、お盆、正月などのそれぞれの季節にあわせた展示のほか、大正時代に行われた難波家13代富一郎の結婚披露宴の様子の再現、当時の難波呉服店の店舗の様子などの企画展も計画しています。

さて、難波家の母屋の見学施設がなぜ単に「難波邸」でなく「難波家本宅」と呼ばれているのでしょうか。 難波家本宅の周辺には、現在難波家が所有している土地建物の他、以前難波家が所有しておりましたが既に手放した不動産も多く残されています。 難波家ではその建物を次のように呼び分けていました。 本宅:現在の難波家本宅敷地内で難波家の住居として使用していた部分 本店:難波家本宅敷地の南側東町通りに面している部分で明治時代から昭和初期まで呉服店を営業していました しまや:難波家本宅の西隣地にある建物で屋号を「しまや」という難波家の分家が居住していた町家 前店:難波家本宅の南側道向かいの建物のうち、道沿いに位置する難波呉服店の支店として使われていた建物です。呉服店廃業後に難波家より売却されました。 別荘:上記前店の南側の建物。難波家が所有していた時には大きな座敷では宴会が度々おこなわれていましたが、前店とあわせて昭和初期に売却されました。

■難波家12代当主 難波弥一郎

~ 難波家本宅を建てた難波弥一郎ってどんな人 ~

この難波家本宅の一連の建物を明治41年に建てたのが、12代難波家当主の弥一郎(やいちろう)です。 難波家の初代は万治2年(1659年)に没した「祖父宗春」なる人物です。この初代のころの難波家の記録は過去帳以外なにも残されておらず、彼がどのような人物でどのような商売をしていたのかは不明です。 初代から約200年後の江戸時代末、当時の当主富蔵はこの場所で小さな雑穀商を営んでいました。

当家に残る古い鑑札。難波家の当時の家業は雑穀商と伝えられているが、鑑札は「米綿雑穀」となっている。

弥一郎は明治元年に難波家の親戚で倉敷の浜田町(現在の阿知2丁目センター街付近)で米問屋を営んでいた根岸家に生まれました。 跡取り息子のいなかった富蔵は娘の柳(りゅう)の婿として弥一郎を難波家に迎えました。 難波家に入ってすぐに弥一郎は難波家の新しい事業として呉服商を始めました。このビジネスは大成功し、明治41年には店をより大きくするため呉服店を改装し、呉服店の北の住居部分を解体し新しく母屋部分を新築しました。これが現在の難波家本宅にあたります。 弥一郎は呉服店の営業で得た利益を個人相手の貸金業(いまで言うノンバンク)、株式、不動産などに投資し、明治末期から大正期のバブル時代の好景気の波に乗り、難波弥一郎の名前は毎年のように倉敷の長者番付の上位に掲載されていました。弥一郎は難波家15代360年の歴史の中でも最も栄えた時期を生み出しましたが、その栄光は長続きしませんでした。

■呉服店の閉店と難波家のその後

~ 難波家本宅はなぜその姿を昔のまま現在に残せたか? ~

昭和11年、弥一郎は48年間にわたって営業を続けてきた呉服店を閉店しました。昭和恐慌からの景気の悪化と満州事変以後の戦費調達のための呉服等贅沢品への課税強化が理由だったと伝え聞いています。 その後膨らむ債務の処理のため、前店・別荘その他所有する不動産を次々手放し、戦後の農地改革によって多くの小作農地も手放し、本宅およびその周辺にわずかな土地を残して昭和27年に弥一郎はその生涯を終ました。 弥一郎の一人息子で13代当主の富一郎は難波家の家業である呉服屋を継ぐことなく、大学を卒業後大手都市銀行で定年まで働き、定年時に住んでいた兵庫県芦屋市の屋敷を終の棲家としました。弥一郎が亡くなった後は、富一郎は盆正月法事等の他ことあるごとに倉敷の実家を訪れ、難波家本宅の維持管理を続けていきました。富一郎の死後難波家を継いだ章子(ふみこ)も幼少の頃より住み慣れた芦屋に住み続け、倉敷の難波家の本宅はそのままの状態で富一郎の時代と同じように章子が維持管理を続けました。 また、難波家本宅の保全に努めたのは富一郎・章子だけではありませんでした。弥一郎の生家である根岸家は難波家本宅の近隣に居を構えていたため、富一郎・章子に協力し本宅の面倒を見続けました。 これが、難波家本宅が建築当初の姿を現在までとどめることになった大きな要因です。 14代当主の章子は生涯結婚することはなく、60歳になった時根岸家より新たな養子を迎えました。それが現在の15代当主難波永芳つまり私です。

左側の老夫婦は12代目の弥一郎とその妻の柳。右側の若夫婦は13代目の富一郎とその妻の佐規子。中央の少年は富一郎長男の康訓。佐規子に抱かれた女の子が14代目の章子。

■今後の難波家本宅

14代の難波章子は平成26年(2014年)に逝去し、私が15代目当主となりました。 章子から引き継いだ遺産のうち難波家本宅は固定資産税火災保険などの多額の年間固定費がかかり、盆正月法事以外にほとんど利用していないにもかかわらず仏壇神棚のある重要な場所なので簡単に処分ことも出来ない問題物件でした。 様々な検討を重ねた結果、難波家本宅本来の日々の仏事・神事の行事をそのまま本宅で続け、明治大正時代の難波家の生活と建物を体感していただく観光施設として建物を後世につたえていくことにしました。これによって近隣の往来が増えれば、難波家を見守っていただいた東町町内の方々に少しでも恩返しができるのではないかと思っております。 難波家本宅を公開し皆様に見ていただくことが残された私の務めの一つですが、もう一つ本宅には手つかずの大量の古い書類が残っています。これを整理し明治元年生まれの難波弥一郎夫婦から始まる難波家150年の歴史の物語をこのホームページで発表または本宅で公開していくことが私のもう一つの務めと考えます。 こちらは、大原家を中心とした明治以降の倉敷市史で扱われなかった倉敷の町のはずれの小さな呉服店の興亡を描く物語になると思います。ご期待ください。

約70年ぶりに復活した玄関幕。阿知神社の祭りや祝い事の時に玄関に飾られました。このような失われた行事も復活させていきます。