難波家秘蔵映像2 鷲羽山・渋川

昭和8年8月 難波家の夏休み
2024年は瀬戸内海国立公園指定90周年
その一年前の昭和8年8月、難波家の三人は鷲羽山から渋川へと向かった

 
今年2024年は昭和9年(1934年)瀬戸内海国立公園が指定されてから90年目の年です。それに合わせてこの動画を難波家秘蔵映像第2弾として公開しました。
瀬戸内海国立公園の指定の前年の昭和8年当時、難波呉服店を創業し難波家本宅を建てた12代当主難波弥一郎はその妻と倉敷市東町に居住していましたが、その長男難波富一郎と妻、二人の子供は兵庫県芦屋市に住んでいました。
お盆のため倉敷に帰省していた富一郎は父弥一郎と長男康訓と連れ立って下津井鷲羽山観光と渋川に出かけました。
 
映像の最初の部分は現在の鷲羽山展望台付近。最初に双眼鏡を手にしている老人のは難波家12代目の難波弥一郎。弥一郎から双眼鏡を手渡されたのは孫の康訓。

 

 
画像には映っていませんが、カメラで撮影しているのは弥一郎の長男の富一郎。
カメラは鷲羽山の西側の下津井港の方を映し出し、その後白い柱が画面中央に現れる。文字が読みにくいが「名勝下津井鷲羽山」と読める。これは国立公園の制度が始まる前の昭和5年に下津井鷲羽山という名称でこの近辺が国の名称として指定された時のものです。

 
続いて鷲羽山周辺の画像を映し出した後、海に浮いた小さな船が映し出されます。場所は下津井港と思われます。一行はこの船に乗って渋川海水浴場へ移動します。

 
話は少しさかのぼりますが、彼ら三名はどのようにして下津井まで来たのかは不明です。富一郎が芦屋から倉敷に帰省した時、移動手段としてはハイヤー(注1)を使っています。
考えられる移動手段の一つは、東町の実家よりハイヤーで鷲羽山まで移動し、その後待たせておいたハイヤーに乗車して下津井港まで行くという方法。もう一つはハイヤーで茶屋町まで移動して茶屋町から鷲羽山駅まで下津井電鉄を利用し、鷲羽山観光後再度下津井電鉄に乗って下津井で船に乗り換えるという方法。
船の映像では弥一郎と康訓以外の乗客も乗っているので、チャーターではなく乗り合いだと思われます。
 
当時の渋川海水浴場へのルートとしては、下津井からの船以外に宇野からも船がでていた模様です。
こちらの野崎家撮影の映像にその船がうつっていますが、下津井からの船にくらべてかなりの大型です。
 
LinkIcon 渋川(1928年)【100年Disk】|岡山映像ライブラリーセンター
 
リンク先の動画の解説では宇野~渋川ルートのことしか言及されていませんが、児島の大地主で下津井電鉄にも多くの土地を供出した野崎家の人たちは下津井からの船を利用したのではないかと思います。
 
私の子供の頃は、毎年夏休みになると児島の親戚の家に遊びに行って連日一日中従姉妹たちと渋川で遊んでいたことを思い出します。最近は海水浴客も減っているそうですが。